養老孟司氏の『バカの壁』を読んでみました。 「バカの壁」とは、自分と同じ情報のみを受け入れ、自分が知りたくない情報は遮断してしまうという脳の働きのことを指しています。
この話を聞いて、現代のインターネットにおける「エコーチャンバー」現象を思い出しました。自分に都合の良い情報ばかりが表示され、意見の合う人とばかり交流することで、自分の考えが補強されていく。エコーチャンバーは、この「バカの壁」という人間本来の性質が、アルゴリズムによりさらに加速されたもののように思えます。
本書を読んで納得した部分も多いですが、一方で「それはどうだろう?」と疑問を持った部分もありました。自分のメモを整理しながら、いくつかの要因と違和感について書いてみます。
脳内の方程式 y = ax
本書の中で一番しっくりきたのが、脳の働きを一次関数 $y = ax$ で説明している部分です。
y:反応(理解)a:係数(興味・関心)x:情報(入力)
人によって、この係数 a が何に対して向いているかが違います。
興味がない(a=0)ことの話をいくら聞いても、理解(y)はゼロのままです。逆に、特定の分野に興味がある「オタク」と呼ばれる人たちは、その分野の a が極端に高い状態と言えます。
「話が通じない」と感じる時、それは相手の理解力がないのではなく、単にお互いの「係数 a」の大きさや方向が違うだけなのかもしれません。
壁を厚くする要因:脳の変化と都市化
筆者は、「バカの壁」が形成される背景には、現代特有の変化があるとも述べています。
脳の発達の変化 昭和の時代に比べて、現代人は前頭葉(我慢する力を司る部分)の発達が遅くなっているという指摘があります。ここの発達が遅れると、「キレる」といった短絡的な行動につながりやすくなります。こういった変化も、人の話を聞かない、自分の殻に閉じこもるといった壁の形成に関わっているのかもしれません。
都市化と身体性の喪失 また、都市化によって体を動かす機会が減り、身体の扱いがおろそかになっている点も挙げられています。 意識によって、本来は体の要求である睡眠ですらコントロールしようとしがちです。筆者はここから「身体や無意識を無視した社会では、共同体も維持できない」といった論展開をしているのですが、正直なところ、この「身体・睡眠」と「共同体」のつながりはよく分かりませんでした。(私の理解力が足りなかったのか、半分寝ていたのかもしれません……)
教育への違和感:「個性」と「自然」
ここからは、読んでいて少し引っかかった部分です。
「個性」重視と共通了解 筆者は「かつては共通了解を重視していたが、現在は個性を重視しすぎているため、共通了解がおろそかになっている」と述べています。これには正直、あまり同意できませんでした。個性を重視したといっても、道徳のような共通理解の授業は依然として存在していますし、それで十分なのではないか……?と感じてしまいます。
ただ、「言葉や論理の本質は『共通了解』を広げることである」という点には強く同意します。 ソシュールの哲学のように、「意味(=共通了解)が群れの境界線を引く」と考えれば、共通了解を育むことは群れをまとめることにつながります。ここから離れることは、群れ内での諍いを生み、「バカの壁」を発生させる原因になるのかもしれません。
「嘘の自然」と偏重教育 自然教育についての指摘には、別の意味で考えさせられました。 筆者は学校で教えられる「自然」があまりに綺麗に整えられすぎていると述べています。本来の泥臭く、思い通りにならない自然ではなく、管理された安全な「嘘の自然」を教えてしまっている。これは個人的に有害にすら感じられます。
また、実物(現物)から学ばずに、紙の上の勉強(偏差値)だけで評価されるシステムへの批判も刺さります。これでは「紙仕事」だけ上手で、現実の複雑さに対処できない人間が生まれてしまう。こうした「実物を見ない」姿勢こそが、思考の凝り固まりに寄与しているのでしょう。自分は紙のみでやってきた側なので、耳が痛いことです。
根本にあるもの:「正義」と「常識」
最後に、宗教や正義、そして解決策についての考察です。
「絶対的な真実がある」という名のもとにある一元的な宗教(キリスト教やイスラム教、あるいは科学至上主義など)は、ある意味で思考停止を招き、他者との間に強固な「バカの壁」を築いてしまいます。多神論が「絶対的真実」に依存していないのとは対照的です。
これは「正義」という言葉にも通じます。 個人的には、「正義」という言葉自体が、一元論的な響きを持っているように感じられます。「絶対的な正解(正義)」がこの世に存在する、という前提に立ってしまっているからです。 しかし、ある人の正義は、別の人にとっては非正義かもしれません。「こちらの正義」を絶対視した瞬間、相手との対話は不可能になります。これこそが「バカの壁」の正体のように思えます。
では、どうすればこの壁を越えられるのか。 筆者は、神や絶対的正義といった頭の中の理屈ではなく、「常識」こそが鍵だと述べています。
ここでの常識とは、社会的なマナーのことではありません。「人間であれば普通こうだろう」という、私たちの身体性に根ざした普遍的な感覚のことです。痛い・寒い・眠いといった、論理以前の「身体」が持つ共通項。 対立する一元論(脳内の理屈)を超えて、人々をつなぐことができるのは、この「身体に基づいた常識」しかないのかもしれません。
結論
私たちは「バカの壁」を完全になくすことはできないのかもしれません。人間である以上、何かに興味を持ち、何かを無視してしまうのは避けられないからです。
それでも、「自分は壁を作っているかもしれない」と自覚することはできます。 入ってきた情報をそのまま飲み込むのではなく、一度立ち止まって考えてみる。「絶対に正しい」と思わないようにする。 そうやって、自分の思考の癖と付き合っていくしかないのかな、と思いました。








